Sādhana & Sādhya #15
第六の知識の手段が言葉、シャブダとしてあるとしましょう。言葉は知識の手段になり得ます。しかし、それは誰の言葉であるべきでしょうか。私たちは、それはリシ達の言葉だと言います。リシは知る者、見る者、マントラ・ドラシュターです。彼らはどこから知識を得たのでしょうか。彼らはどのように見たのでしょうか。 そこに知識の源、全知識、つまりイーシュヴァラがあるとしましょう。もし全知識が既にあるなら、新しい知識や新しい発見はあり得ません。知識はすでに存在し、作られるものではありません。それは無知を取り去ることであり、それが新しいブレークスルーが発見と呼ばれる所以です。それはすでにそこにあり、あなたはこれまで知らなかったのですが、今、知るに至りました。実際、すべての発見は、全知識であるイーシュヴァラからのものであり、すべての発見は知る手段を通じてなされます。それはイーシュヴァラによって「明かされた」知識であり、それゆえ私たちはリシの知識を言葉、シャブダの形で啓示として受け入れます。
ヴェーダは最も神聖な啓示です。知るための五つの手段では収集できない知識がヴェーダの主題です。ヴェーダはまたシュルティとも呼ばれます。ヴェーダの言うことが私にとって、または他の誰かにとって有用であるならば、たとえそれが私の理解の範囲を超えているとしても、私は受け入れることができます。話し言葉は意図的な言葉です。 言葉、シャブダとは、つまり意味、主題があるべきであるという意味です。もしその主題が五つの知る手段の範囲内にあれば、私はヴェーダを必要としません。また私が知ることができることについて述べている場合も、それはヴェーダの主題ではありません。ヴェーダは、知識の五つの手段の範囲を超えることについて語ります。それは言葉によって明らかにし、私はそれらの言葉を通して理解します。
したがって、ヴェーダの主題、ヴィシャヤはアナディガタである必要があります。アナディガタとは、Na adhigata、anadhigata、五つの知る手段の範疇を超えているものを意味します。同時に、主題は意味あるもので、私にとって有用である必要があります。なぜならそれらはシャブダートマカ、言葉の形であるためです。
私は日々の認識において多くのデータを収集します。目の性質はデータを取り込むことです。目を開けるとそこに視界があり、さまざまな物が見えます。そのうちのいくつかは有用ですが、それらの多くは役に立ちません。しかし、シャブダ、明かされた言葉、つまりヴェーダには、まったく役に立たない言葉があってはなりません。たとえばヴェーダが天国に白いカラスがいると言ったとして、それは私にとってどのように役立つでしょうか。もし白いカラスがいるなら、いれば良いのです。私はそれから何かを得るでしょうか。ですから、ヴェーダには、否定できないもの、知識の五つの手段を超えており、同時に私にとって有用なものを明らかにするという地位があります、abādhita anadhigata phalavat artha-bodhakatvam。
ここで、ヴェーダがどんな種類の知識を提供することができるのか見てみましょう。人間として、人はプンニャとパーパを集めることができます。なぜなら人間にはすることもできるし、しなくても良いという選択があるからです。もしある人が他の人にとって受け入れられないことをしたら、その人が同じことを他の人からされたら受け入れられないとよく知りながら、それでも、それをしたら、それはアダルマのカルマ、行いです。カルマはドゥルシュタ、アドゥルシュタという二つのタイプの結果、パラを招きます。 ドゥルシュタ・パラは、今、または後に、あなたが知る結果です。あなたは人を殴り、その人は病院にいます。それはドゥルシュタ・パラです。そして警察が追いかけて来る。訴訟があり、あなたはお金を失います。それはドゥルシュタ・パラです。 そしてアドゥルシュタ・パラは今生、または来世での不快な経験として現れるパーパです。 私たちはアドゥルシュタが良いカルマのことだけを指していると思っています。しかしそうではありません。アドゥルシュタにはプンニャとパーパの両方があります。アドゥルシュタは見えない何かです。それはあなたが受け入れなければならないものです。シャーストラは、あなたがダルマに反する行いをするとき、あなたはその結果を招くだろうと指摘します。ドゥルシュタ・パラからは逃げることができるかもしれませんが、アドゥルシュタ・パラからは逃れることはできません。なぜならそれは法則、カルマの法則であるためです。
同様に、あなたが手を差し伸べたり、祈りを捧げたりするカルマ、行いをするとき、それらはグレース(恵み)、アドゥルシュタを招きます。それはプンニャです。人間は、プンニャとパーパの両方の結果を生み出すことができます。それらはアドゥルシュタです。これはヴェーダが述べていることであり、私はそれを否定することはできません。私にはヴェーダの言葉を否定したり反証したりする知識の手段がありません。私はプンニャとパーパを見ていないからといってそれらが存在しないとは言えません。また、それらが存在することを証明する手段もありません。私はヴェーダの言うことを理解するのに役立つ経験をしているのかもしれませんが、それを証明することはできません。もしそれが証明できるなら、それは私が与えられている知識の五つの手段の範囲内でなければなりません。
私はヴェーダの言うことを受け入れます。これはシュラッダーと呼ばれます。それは私をアースティカにします。つまり、存在する、”asti”と言う人、ヴェーダがプラマーナ、知識の手段として有効だと言う人です。 私はプンニャが存在し、パーパが存在することを受け入れます。その知識は私にとって有用です。私はプンニャを集め、パーパを避けることができます。どちらも、私がこの人生または来世において、快い経験と不快な経験としてさまざまな度合いで経験するものです。つまり、それは私がカルマの法則から逃れることができないということを意味します。
ヴェーダは私に別の出生、プナルジャンマがあると言っています。私自身のカルマによって私は異なる生を受け、したがって私はさまざまな経験をしなければなりません。私は他のローカ、例えば天国のような経験の世界に行くことができ、旅を続けることができます。それには終わりがありません。この知識も私の知る手段を超えています。
ヴェーダはまた、さまざまな目的のための儀式について述べています。それらの繋がりを私は知りません。儀式はお金とどのような繋がりがあるのでしょうか。私はお金を使ってこれらの儀式を行い、パシュ、プットラ、ヴィッタ、牛、子孫、富などを手に入れます。しかし、儀式、サーダナと目的、サーッディヤとの繋がりを、私はまったく知りません。たとえば、ダシャラタ王はプットラ・カーメーシュティを行いました。イシュティとは儀式のことです。プットラ・カーマ、息子を望む人が執り行うイシュティはプットラ・カーメーシュティと呼ばれます。このような儀式があることを私たちはヴェーダから知るのみです。つまり、プットラのような目的を達成するにあたり特定のアドゥルシュタ、未知の障害があるとき、それらの障害がこの儀式によって取り除かれます。そして、その人は結果、サーッディヤに恵まれるのです。「私はプットラが欲しい、私は雨が欲しい、私は富などが欲しい」など、私はサーッディヤを知っています。しかし、特定のプンニャのためのサーダナは私には知られていません。ですからヴェーダの主題は、知られている目的、サーッディヤのための未知の手段、サーダナであり、知られているサーダナのもたらす知られていないサーッディヤであり、そしてまた知られていないサーダナのもたらす知られていないサーッディヤ、手段と目的の両方が私に知られていないものでもあるのです。