ヴェーダーンタはグルなしでは理解できない

Tadvijñānārthaṃ sa gurumevābhigacchet, samitpāṇiḥ śrotriyaṃ brahmaniṣṭham, このśrutiはvastu、つまりātmāを知るための鍵を与えてくれます。Gurumevābhigacchetそれは、guruṃ eva, つまり、先生のところのみにabhigacchet, 行きなさいと言っています。他の場所に行ってはいけない、自分自身で勉強してはいけない。なぜ、自分で śāstraを勉強してはいけないのでしょうか。Śāstraそのものが、私にグルのところに行くように促します。もし私がグルのところに行き、彼が別のことを教えたらどうでしょう?ですから、私たちはこのグルを定義しなければなりません。

 グルはśrotriya、つまりヴェーダ全般を学び、教えの伝統、sampradāyaを知る者であるべきです。彼はまたpaṇḍita、ヴェーダの最初の部分、karma-kāṇḍaの知識を持つ者であるべきです。さらに、グルはśrotriyapaṇḍitaであるだけでなく、brahma-niṣṭha、つまりブランマンについてのśāstraに精通した者でなければなりません。彼はブランマンが自己、ātmāから切り離せないものであると理解しているのです。自分がbrahma-niṣṭhaであるかどうかは、どのようにしてわかるのでしょうか。Brahma-niṣṭhaの特徴、lakṣaṇaとは何でしょうか。あなたは、他の人、つまり、あなたよりも詳しい人に、その人がこの主題を知っているかどうかを尋ねます。私たちは、他の何ものにもコミットしていない人がbrahma-niṣṭhaであると言います。その人のniṣṭhaはブラフマンを追求することのみです。Brahma-niṣṭhaとは、sādhusannyāsī、あるいはsannyāsaに近い生き方を意味するのです。Evaという言葉を使うのは、グルがśrotriyaであり、brahma-niṣṭhaであることを確認し、その人を自分の先生として選ぶべきだということです。そのような人が教えるとき、その人はグルです。

 また、samitpāņihsamitを手にした生徒の姿勢も指摘されています。Samitとは、aśvattha(ピーパル)の木の小枝を意味します。Bahmacārigṛhastaも、一般にこれを火に供えます。Samitpāṇiḥは、何か役に立つものを先生に捧げるという、そういった意味です。Rikta-pāṇir-na-paśyeta rājānaṃ daivataṃ gurum、慣例として、寺院を訪れたり、王様や先生に会いに行くときは、手ぶらで行くものではないと言われています。何かを捧げる必要があるのです。これはsevaの姿勢を示すものです。そのような態度で、あなたは知識を得るために先生に近づくのです。

 ヴェーダーンタは、言葉という形の自己の知識ための手段ですが、その言葉を生徒、探求者が理解しなければなりません。Nityam, anantam, pūrṇam, satyamといった言葉は、正しく理解されなければ、単なる言葉に過ぎません。これらの言葉を分析する必要があり、それには特別な教えの手法が必要です。なぜなら、これらの言葉はそれ自身で理解可能な、傘、ドア、テーブル、椅子、カボチャなど、対象物を意味する言葉ではないからです。

Śāstraは、ブランマンは言葉を超えるものだと言います。言葉を超えるものだと言いながら、それでも伝えなければならないため、その伝え方は普通のものではありません。ブランマンの真実の性質上、それはあらゆる言葉で表すことができ、またどんな言葉でも表すことはできません。ですから、ブランマンとは何かを明らかにするためには、現実を扱う言葉、つまり、あなたの理解する現実を扱う言葉を使う必要があります。これらの現実を表す言葉は通常、形容詞や属性の意味で使われます。私たちは、実体的なもの、つまり、そのものを明らかにするために、この言葉を暗示的に使います。私たちは、ある対象を見て、それが真実か偽りかのどちらかであると言います。仮に私が、あなたが見ているものは真実ではないと言ったとしましょう。私はそれが偽りだとは言いません。ただ、それはsatyamではない、真実ではないと言うだけです。私はまた、これを見る人、その人のおかげで見ることができる人をsatyamであると言います。そう言うことで、私はある状況を作り出し、それによって、真実とは何か、satyamとは何かを明らかにするのです。その観点から、あなたは真実を認識せざるを得ません。一方は外見で、もう一方は真実です。この二つ、外見と真実は混同されると、生徒を混乱させることになります。ですから、私たちは知っている言葉を使い、同時に定義、lakṣaṇaによって真実を伝える必要があります。Pramāņaはここで必要不可欠なものとなり、適切に取り扱われなければなりません。Lakṣaṇaがあるところでは、文脈を作る必要があります。あなたがそこから理解せざるを得ないという観点を作る必要があります。これは先生だけができることで、本ではできません。本には、satyam、jñānam、anantaṃ brahmaと書かれていますが、これは観点を作り出すものではありません。あなたが見えざるを得ない状況を作るのは先生なのです。

 その先生はいかにしてこのような立場に至ったのだろうという疑問が湧くかもしれません。それは、彼の先生のおかげです。ではその先生はどうやってこの知識を得たのでしょうか。それは彼女の先生のおかげです。その人はどうやってこれを得たのでしょうか。それもまた、彼の先生のおかげです。最初の先生は誰でしょうか。最初の先生は、あなたの最初の父親です。私の最初の父親は誰ですか?彼が最初の先生です。ではその最初の父親は誰なのかというと、それはĪśvaraであり、Īśvaraは最初のグルでもあります。それはĪśvara以外の何者から来るものでもありません。実際、すべての知識はĪśvaraから来たのです。このようにグルは自己の知識を得るためにとても重要な要素となります。よって、ヴェーダはgurumevābhigacchet、グルを探すように勧めています。