Sādhana & Sādhya #17
グルの必要性
グルの必要性はあります。ウパニシャドそのものがその鍵を与えてくれます。すべての機械にそれを使用するための取扱説明書があるのと同じように、ウパニシャドの文献はそれをどのように勉強すべきかを正確に教えてくれます。
ムンダカ・ウパニシャド 1.2.12 からの文の意味を見てみましょう。“Parīkṣya lokān karmacitān brāhmaṇaḥ, nirvedamāyāt nāsti akṛtaḥ kṛtena. (Tasmāt),tadvijñānārthaṃ sa gurumevābhigacchet, samitpāṇiḥ śrotriyaṃbrahmaniṣṭham’.
瞑想と行いを通して得られた経験を分析し、分別のある人が冷静さを発見しますように。モークシャ、それは創造されたものではなく、行いを通して得ることはできません。よって、ブランマンの知識を得るには、彼は小枝の捧げものを手に持って、聖典に精通し、ブランマンの明確な知識を持っている先生に行かなければなりません。
Parīkṣya lokān karmacitān、行いによって得られたさまざまな形の経験を分析してから、分別のある人が冷静さ、客観性を得ますように。アルタとカーマを、モークシャをゴールに見据えたより大きなヴィジョンに仕えさせること自体が成果です。祝福形のāyāt、彼が得ますように、が使われているのはそのためです。それは自然に起こることではないのです。私は自分の経験を分析してみる必要があります。そうしなければ、私は何の理由もなく人生で欲求不満になるだけです。それどころか、賢くなる理由はたくさんあります。私が賢くならなければ、私は欲求不満、失望、不満を抱き続けます。Āyāt という言葉は、これまでに集めた経験を生かして分析するべきだということを強く物語っています。その分析から生まれた知恵があるはずであり、それによって プルシャアルタが不安でちっぽけであることからの自由として発見されます。これがモークシャ です。
Brāhmaṇaḥ nirvedamāyāt nāsti akṛtaḥ kṛtena、’モークシャ’という言葉には死という意味もあるため、恐怖を生み出します。彼が’ムクティ’に到達したということは、彼が亡くなったという意味です。実際は、モークシャは不安からの自由を意味します。人は束縛という概念を持っていますが、モークシャとは、束縛、限界、不十分さ、不安といった観念、要するに自己についての無知から生まれるすべての観念からの自由です。
分別のある人はnāsti akṛtaḥ kṛtenaを理解します。Kṛtena karmaṇā akṛtaḥ nāsti、創造されていないものはカルマによって創造することはできません。永遠のものは創造できません。永遠のものは生まれないからです。すべての形態のカルマ・パラは、天国も含み、生まれたものなので、永遠ではなく、有限です。彼は、絶対的な自由は知識の観点からのみ得られるものであることを理解しています。知識は生み出したり創造したりするのではなく、無知を取り除くだけです。アートマーは永遠にすべての制限から自由です。私が限りあるものだという観念は、アートマーが無限であるという知識を得ることによって取り除かれます。これがモークシャ、自由です。