Sādhana & Sādhya #14

3月 28, 2022 | Sādhana & Sādhya, ヴェーダのヴィジョン

知識の五つの手段

では、自己を知るためのサーダナとは何でしょうか。一般に、知識は常に知る手段によって得られます。色や形を見たいのなら、目がサーダナ、知る手段となります。サンスクリット語ではプラマーは知識、プラマーナは知る手段のことです。

人間が授かった五感は知る手段の一つです。見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるなど、それぞれの感覚的な体験や認知は知覚です。この感覚による知識を知覚から生まれたものと呼ぶことにしましょう。サンスクリット語では、それはプラッティヤクシャ、直接の認識と呼ばれています。よって、知覚は形や音などのさまざまな対象を知る手段です。以前見えなかったものを見るために顕微鏡や望遠鏡などを目に付け加えたとしても、直接見ているためそれはプラッティヤクシャです。その基本的なデータは知覚からのものです。

結論は、アヌマーナ、推論と呼ばれるもう一つの知る手段によって得られます。これは知識の手段として非常に有効なものです。知覚によるデータに基づいて、いくつかの推論を導き出します。アヌマーナは二つの点から成っています。やかんをコンロに置くと、やかんの注ぎ口から蒸気が見えます。蒸気を見ることで水が必要な温度に達していると結論付けられます。これはワンステップの推論です。

ツーステップの推論はアルターパッティ、arthāt āpattiḥと呼ばれます。それを推定と呼んでも良いでしょう。それは含意によって到達するものです。つまり、含意がなければ不可能であるという意味です。その理由は、一つの事実が不可能であることを二つの事実が明らかにしているからです。それを証明するものが何か他にない限り、それは不可能なのです。すべての医学的診断は二段階の推論です。医者はこの推論によってあなたに薬を与えます。彼らは他の可能性を否定し、これが問題であるに違いない、よって処方箋はこれというように判断します。推論は私たちの日常の活動にとって非常に重要な知識の手段です。

もう一つ、知覚でも推論でも推定でもない知る手段があります。それはウパマーナと呼ばれています。 ウパマーナはupamiti karaṇamという意味で、描写や似ているものとの比較など、おおよその知識を得るのに役立つものです。バイソンが水牛のようなものであると言うとき、「水牛のようなもの」がウパマーナと呼ばれます。それもニャーナであり、後にバイソンを識別するのに役立ちます。

そしてまたもう一つ、非常に重要な知識の手段、不在の知識があります。私はあなたに尋ねます。「私の左手に壺がありますか」 あなたは「いいえ」と言います。「手に壺がないことがどうやってわかるのですか。それは知覚ですか。あなたは目で直接見ているのですか」 あなたは「はい」と言います。目は対象を見ることはできますが、対象の不在は見ることができません。壺の不在は光を反射しません。壺の不在のみでなく、象の不在や馬の不在など、他になんでもあり得ます。壺があるかどうか尋ねるとき、あなたの返事は否定です。したがって、不在の知識は、存在の知識と同じくらい重要です。あなたは自分が持っていないものを知っているときにのみ、より実用的になることができます。プラグマティズム(実用主義)とは、自分に欠けているものについて完全な知識を持っている必要があるという意味です。その知識の欠如にどのようにたどり着くのでしょうか。それは推論ではなく、推定でもなく、一つの例から生まれたものでもありません。それはそれはアヌパラブディと呼ばれるもう一つの知る手段で、不在を明らかにする知識の手段です。これに相当する英語の単語はありません。それは知覚に基づいていますが知覚とは異なるものであり、よって、もう一つの知識の手段と見なされます。 アヌパラブディは、医療の診断、物理学、化学、医薬品などにおいて非常に重要です。

あなたは、それがテクノロジー、基礎研究や単純な日常生活のいずれかであっても、これらの五つの手段を用いて知識を追求しています。これらの五つの知識の手段は、主体、つまりあなた、サムサーリーの手の中にあります。 すべての認知的な追求がサムサーリーにとって可能です。これらの五つの手段を使って客体化できるものについての知識を収集するために、あなたのスヴァルーパを知る必要はありません。

サムサーリットヴァンは、これらの五つの知る手段を用いる、知る人を中心としています。 もしそのサムサーリーがスヴァルーパ、アートマーの真実を知りたいとき、これらの知識の手段のいずれかがアートマーの本質を明らかにするという目的を果たすことができるでしょうか。人は目を使って対象を見ます。その対象を見ているのはサムサーリーであり、彼が自分自身を見る必要があるとき、目や耳は役に立ちません。知覚に依存しているアヌマーナやその他の知る手段も役に立ちません。

アヌパラブディもまたサムサーリー自身が不在を知るためのものです。よって、五つの知る手段はすべて、自己を知るためには不十分です。それら自体としては有用ですが、客体化できるもの、つまり主体として関連付けることができるものを対象としています。形、音、匂い、味、触覚、これらはすべて、主体として人が関連を持つ対象です。推測された結論において、私は推測された対象に対する主体です。推定された対象において、私は主体です。私がウパマーナ、比較を通して集めたおおよその知識が何であれ、私はその知識の主体です。バイソンの例では、バイソンは私ではありません。私はバイソンを知る人です。私は壺の不在を知る人です。

つまり、知る人は主体、アートマーであり、知られるもの、客体化されるものはアートマーではありません。それはアナートマーです。このようにして分析が行われます。主体はアートマーで客体(対象)はアナートマーです。アナートマーとは何でしょうか。太陽、月、星、木、そして花、それらはすべてアナートマー、私の知識の対象です。五つの知る手段はアナートマーの知識を得るためのものです。

人は偉大な科学者や、知識の豊富な人、ある知識の分野のノーベル賞受賞者になったとしても、自分自身を知っているとは限りません。また、自分自身を知るためにこれらの知識の分野を知る必要もありません。人はこのアートマーの本質を知るための知識の手段を持っていないのです。人が持っている五つの知る手段は、どれも自己の知識に用いることができません。そして、自己の知識は適切な知識の手段なしには起こり得ません。では、六番目の知識の手段があるのでしょうか。