Sādhana & Sādhya #11

3月 13, 2022 | Sādhana & Sādhya, ヴェーダのヴィジョン

サーダナとサーッディヤの繋がりの欠如

 あなたが望まないものからの自由を求めていることは非常に明白です。人間のこの状況を調べてみると、人間は不安になることを好まず、不満を抱くことを好まず、そして自らの感情の暴君に呪縛されることを望みません。感情の暴君は、それから逃れることができないという意味で最悪です。もし暴君が外にいるなら、あなたは人々を扇動してこの暴君に対して運動を起こすことができます。またはその専制的な王国から離れることもできますが、感情の専制政治からあなたは抜け出すことができません。

 誰も悲しみたいとは思いませんが、人は悲しみます。悲しみは感情であり、それは暴君なのです。感情の専制政治は内なるプレッシャーによるもので、それはアダルマ(調和を乱す行い)でさえも日々のルーティンに変えて、自らにとって受け入れられるものにしてしまいます。それはその人がアダルマが大好きだからではありません。もしその行いが受け入れられないものであるなら、その人をそのように行動させるのはこの暴君なのです。それは他人にとって受け入れられないだけでなく、自分自身にも受け入れられません。それでも、人はそれをしてしまいます。よって、人はこの暴君のプレッシャー下にあり、それは感情的なものであることが多いのです。人はこの感情の専制政治から、不安感から、そして不満感から解放されたいのです。

 言い換えれば、ダルマは私にとって非常に自然なはずです。 アルタ・カーマの追求は私にとって楽しいものでなければなりません。私の楽しみはそれらに依存するべきではありません。私の安全は、私が何を持っているか、何を持っていないかに依存するべきではありません。つまり、どんな追求も楽しいということです。そうだとすると、ここで問題が発生します。サーダナとサーッディヤ、手段と目的との間の繋がりの欠如です。私が望んでいるのは不安からの解放で、私がしていることは不安を継続させるだけのものです。不安な私がいくらかの余分なお金や一時的な力を持っていても、それらは私を安全にしません。私はお金に価値がないとはまったく言っていません。お金には価値があります。購買力です。お金には他のものができないことをする力があります。それについては疑いの余地はありません。しかし、お金が私に不安からの自由を与えてくれると言うことは、それが残念ながら持っていない価値を不必要に与えることです。お金は私を中心とした不安感を取り除くことはできません。

 私は不安で、私はそれに気づいています。さまざまな観点から不安があります。私は時間に制限されています。私は死にゆく存在です。死はいつ来るかわかりません。私が死にゆく存在であるという知識そのものが私を不安にさせます。私はちっぽけです。私の力、リソース、知識、スキルはすべて非常に限られています。 私には「できる」よりも「できない」の方が多くあります。私は全世界に対抗させられる人です。これが現状で、主体と客体の状況です。私は主体で、世界、私がほとんど理解していないこの宇宙全体が客体です。私は、私を捕まえようとしている力が何であるかさえ知りません。それらはたくさんありすぎます。それは私をさらに不安にさせます。私対全世界では敗北は目に見えています。ジーヴァのスタンスは戦士のスタンスです。私が何と戦っているのか、彼らが何であるのか、私は知りさえしません。私は不安です。

 「私は不安です」は私の手に負えない事実です。「スワミジ、私は不安なのでとても幸せです」とは言えません。不安は、不安、恐れ、悲しみ、無力感など、私が望まないことすべてを意味します。これには専門用語があります。サムサーラです。サムサーラにある人はサムサーリーと呼ばれます。 サムサーリーが来ると、サムサーラはその人と一緒にやって来ます。サムサーリーになるのに他の人は必要ありません。よって、私は何が欲しいのでしょうか。Saṃsārāt mokṣa、つまりサムサーラからの自由が欲しいのです。サムサーラはまたbhava、何かになることとも呼ばれます。そのサムサーリーは、何かになるというこのプロセスから解放されたいのです。この自由がモークシャと呼ばれます。

 問題を見極めてからは、モークシャ、自由に向けられたあらゆる追求は精神的な追求と見なされます。しかし、さらに私は手段と目的、サーダナ・サーッディヤを分析し、その追求がどのように適切であるかを知る必要があります。その前に、私は自分がしていることと私が望んでいることの間につながりがないことを知る必要があります。私は何かになることから自由になりたいと思っています。しかし私がしていることは、常に何かになるプロセスです。天国に行くことも含めて。もし死んで天国に行っても、私の旅はこの体の死で終わりません。不安定で、不完全で、不十分で、不満を持っているその人は、同じままです。天国は時間に制限されているため、私が天国を去るとき、また最初からやり直しです。旅は続きます。何かになる人は続きます。私がしていることと私が望んでいることの間にはつながりがありません。アルタやカーマやダルマの追求、天国へ行くという追求と、私が望むモークシャの間には何の関係もありません。私はアルタを手に入れますが、モークシャは得られません。私はカーマを手に入れますが、モークシャは得られません。私は天国を手に入れますが、モークシャは得られません。私が最終的に望んでいることと私がしていることには繋がりがないのです。この分析はヴィヴェーカとヴァイラーギヤと呼ばれます。

 私が本当に欲しいものを見つけ、また私がしていることと私が望んでいることの間に繋がりがないことを見るとき、私はヴィヴェーカとヴァイラーギヤを持っています。ヴィヴェーカ、分別のある理解は、私がしていることと私が望んでいることの間に繋がりがないことを見ることです。一方、ヴァイラーギヤは繋がりがないことを見たときの反応です。ヴィヴェーカとヴァイラーギヤは、解決策を探す上で非常に重要になります。私は自分の追求においてより客観的になります。私は不安から自由になるためではなく、お金のためにお金を求めます。私は不満から自由になるためではなく、喜びのために喜びを求めます。それらに繋がりがないことを見るとき、そこにはヴィヴェーカとヴァイラーギヤがあります。そして追求は新しい方向性を得ます。私たちにはモークシャと呼ばれるサーッディヤがあるのです。