Sādhana & Sādhya #12
モークシャのためのサーダナ
モークシャのためのサーダナとは何でしょう。私がモークシャを得るのを何が助けてくれるのでしょうか。私が何かになったり変化することは役に立ちません。それでは私は引き続きサムサーリーです。サムサーリーは変化をもたらすために何かをします。それはサムサーリーの変化です。その変化はサムサーリー自身のためのものです。言い換えれば、サムサーリーは新しい属性、新しい飾りを持ちますが、サムサーリーは同じままです。したがって、大きな変化は不可能です。なぜなら変化するのはサムサーリーだからです。そのサムサーリーは、いくつかの新しい変化を伴って引き続き存在します。
私は、変化をもたらさなければ サムサーリーであるという問題を解決することができないという非常に無力な状況にあります。問題を解決する可能性はあるのでしょうか。もしあるなら、どんな可能性でしょうか。それは変化のない変化です。変わらずに変わるようなものがあるのですか。あります。それは可能です。変化のない変化、私たちはそれが知りたいのです。
あるところに王子がいるとしましょう。彼は子供の頃に迷子になってしまいました。王子は自分が王子であることを知らずに、部族のコミュニティーで若い男性に成長し、食べ物を探し、森や山に住んでいます。あるとき宮殿の人々が彼を見つけます。彼らは体のあざやその他の記録などを示します。そして十分な証拠をもとに、彼は言われます。「あなたは王子です」と。彼は自分が生まれながらの王子であり、ずっとそうだったことに気づきますが、それを今まで知りませんでした。さて、自分が王子であることを知ったとき、彼は出生などの点で変化を遂げて王子になりますか、それとも彼は変化せずに王子になりますか。彼は何の変化も遂げずに問題なく王子になります。なぜなら彼はその事実を知らずにずっと王子だったからです。それがここでの唯一の可能性です。
知る対象は彼であり、知るのもまた彼自身です。知る人と知る対象がたまたま同一なのです。ここで知られるのは自分自身です。よって外部の助けが必要なのです。それは彼が「私は部族の人間だ」という観念を持っているためです。また、彼が何者なのかを知っている人が来て彼に「あなたは部族ではなく、あなたは王子です」と言わない限り、この観念を修正する方法もありません。そしてこの発言をするだけでは、彼は王子にはなりません。彼は知らなければなりません。おそらく彼は信じて、その男の言葉にシュラッダー(信頼)を持つことはできますが、それでも彼は「私は王子である」という事実を見出さなければなりません。彼は適切な証拠を必要とします。よって、プラマーナ、知る手段、そして必要なものすべてが彼に与えられ、彼は「私は王子である」という事実を認識します。そして初めて彼は王子となります。彼の行動はしばらくの間部族の人のようであり続けるかもしれません。彼は王子のように生き、王子のように考え、王子のように行動することを学ばなければなりません。そのためのプロセスがあります。これはまったく新しいプロセスであり、まったく異なるものです。変化のない変化が起こりました。知識によって変化がありますが、知る対象は同じです。それは変わっていません。
同様に、変化によって私はアサムサーリーになることはできません。つまり、サムサーラからの自由を得ることはできません。それは変化しても不可能であり、変化しなくても不可能です。では、三番目の可能性は何でしょうか。第三の可能性は、その人の自己のアイデンティティーを変えずに変わることです。この王子の場合は知識の結果として変化がありました。彼が王子として生まれ、王子であるという彼の自己アイデンティティーの変化です。自己のアイデンティティーを知ることによるこの変化は、私たちがアートマニャーナ、自己の知識と呼ぶものです。そして知識とは、常にその対象に忠実なものです。