Sādhana-Sādhya #6
人間の追求の分析 (1)
個人として、あなたには達成すべき多くの目的、サーッディヤがあります。私たちの理解のために、これらのさまざまな達成されるべき目的をすべて大きなカテゴリーに分類してみましょう。分類の基準となるものは何でしょうか。人間の追求を分析すると、さまざまな人々がさまざまなことを望んでいることがわかります。誰かが何かを買う。それが彼または彼女のサーッディヤです。また別の人は何かを売りたがっていて、それが彼または彼女のサーッディヤです。あなたは消費者で、何かを買いたいと思っており、あなたにそれを売りたいと思っている誰かがいます。それらは二つの異なるタイプのサーッディヤですが、どちらも何かを成し遂げようとしています。これらすべての追求に共通するものはありますか。それらを見てみると、アルタ、安全だと言えます。アルタはサーッディヤであり、またプルシャアルタです。プルシャは男性の人という意味ではなく、この体に住む人(purau uṣati vasati iti puruṣaḥ)という意味です。この体は都市のようなもので、その中央には人、プルシャがいます。つまり、尊敬され、やり取りする相手のことです。すべての個人はプルシャ、人です。Sarvaiḥ puruṣaiḥ、すべての人によって、男性にも女性にも、すべての文化において、常に、 arthyate、祈られ、求められるものがプルシャアルタと呼ばれます。
アルタ、安全は、富、経済的安全保障、不動産、株式、影響力、名前、権力などの形をとることがあります。実際、お金は力を買うことができます。力はお金をもたらすことができます。それらは互いに交換が可能です。それらは互いに依存しています。この頃は権力を握るにはお金が必要であり、権力を使ってより多くのお金を手に入れ、再び権力を握って維持しようとします。ですから、私たちは権力とお金の両方を同じカテゴリーのアルタの下に持ってきます。あなたの老齢年金はアルタです。あなたが力とお金で後にすることもまたアルタです。これらは一般的にアルタです。人間の追求はアルタに向けられており、その追求は有効です。これが現実です。私たちは人間の願望とニーズを認識し、認める必要があります。アルタは目的ですが、それは究極のゴールではありません。あなたがより大きな絵を持っているなら、アルタは目的にはなりません。
カーマはもう一つのプルシャアルタです。力の追求は独善的なものになりかねません。人はお金をそれほど求めないかもしれませんが、評価を求めることがあります。それは自我の満足のためです。ある人が私にこう言いました、「私はより多くのお金は必要ではありませんが、より多くのお金があれば、より多くの企業を支配することができます。それは私に大きな満足を与えます」 その自我の満足はカーマと呼ばれます。
あなたは満足を得るために努力することがあります。あることをとても欲するときです。たとえば、音楽を聴きたいときにコンサートに行くなどです。ここでは、稼いだお金を使って楽しむ時間を買います。この楽しい音楽鑑賞の時間は、間違いなくアルタではなくカーマであり、人間の生活の中で重要な追求です。ですから、音楽、ダンス、芸術、美、休日、愛、評価、承認など、さまざまな形の喜び、美的体験を求めることはすべてカーマです。それらが満足を与えるためです。もしこれらの追求のいずれかがお金をもたらすならば、それをアルタと見なして良いでしょう。これらの追求は、人間が自らの正気を維持するために非常に重要です。人間は考えることのみによって気が狂うことが可能です。犬は、生理学的に、病気によってのみ狂気になります。私たちは狂犬と呼びますが、犬が狂っているのではありません。それは狂犬病に苦しんでいるのです。人間のみが、考えることのみにより気が狂うという特徴があります。実際、人間の定義は狂うことができるというものです!
私たちにはアルタとカーマがあり、どちらもがプルシャアルタと呼ばれています。また、今生ではなく来世に専心している人々がいます。人類の半分は天国に行くことに傾倒しています。これは様々な宗教によって与えられた約束です。彼らは天国に行く必要があると信じさせられています。さもなければ、彼らは地獄に行くというのです。天国の概念は私たちにとって新しいものではありません。ヴェーダ、この世界中で最も古い知識体系はスヴァルガ(天国)について語っています。しかし、もし天国を選ばなければ地獄に行くとは言われていません。ですから、天国に行くこともサーッディヤです。次回、より良い生まれでより良いスタートを切ることはサーッディヤであり、そのためのサーダナが存在します。
(次回に続く)