Sādhana & Sādhya #1
श्रीगुरुभ्यो नम: ।(この知識を代々教えついでくださった先生方に敬意を表します。)
「ヴェーダのヴィジョンを学ぶ」のクラスで今日から始まった新しいテキスト、スワミ・ダヤーナンダジの著書の日本語訳を随時更新して行きます。Sādhana & Sādhya は人生で成し遂げるべきゴールとその手段というトピックで、南インドのアシュラムで行われた一週間のリトリートにてスワミジがお話しされたことをまとめたものです。
アシュラムでのリトリートは一味違う
リトリートは人が自らをリラックスさせるのに役立ちます。日々の生活は次から次へとすることがあり、厳しくて疲れ果てるものです。前の仕事において欲求不満や失望や怒りといった感情的な問題があってもそれらは解決されません。別の仕事を引き受けても、また欲求不満になります。人々と話したり交流したりすることでさえ、非常に負担になります。それはまるで一年半もの間、洗っていないお皿で食べるようなものです!そのお皿がどんなものになるか想像さえつきません。それは健康的でもなく、宗教的、衛生的、美的にも受け入れられません。
人生においても、私たちはこの感情的な山を積もらせ続けています。すべての交流が人に楽しい経験や楽しい思い出を残すわけではありません。多くの場合、経験は苦痛、不平不満、苛立ち、怒り、後悔、そして時には恥を残します。これは本当に最悪のことです。これらはさまざまな状況に対する人の反応です。おそらく、もっと客観的に物事を見るべきでしょう。そして可能であれば傷を癒し、自らをリラックスさせればもう一度やり直すことができるでしょう。私がリトリートの目的を理解していれば、これがリトリートというものです。完全に別の人になれないまでも、そこには一種のくつろぎがあります。
アシュラムに滞在することは、一味違ったリトリートです。ここでは日常の雑用をするように求められたりすることはありません。ベルが鳴り、食べ物が出されます。それはあなたの大好きな食べ物ではないかもしれませんが、それは問題ではありません。なぜならあなたは楽しい時間を過ごすためではなく、リトリートのためにここに来たのですから。あなたの日々の仕事、あなたが対処しなければならない人々、すべてを置いてきたのです。あなたは自分自身と過ごします。それは一種の贅沢です。
自らと向き合うことは簡単ではありません。あなたがカップルとしてここに来たとしても、さまざまな(普段の)状況から離れることができます。しかし私たちはカップルではなく、個人を対象としています。ですから、これは一味違うリトリートなのです。私たちは自らが普段行っているさまざまな(物事に対する)反応を見て、自分自身についての洞察を得ます。たとえば機械を見てみましょう。モーターのように、1分間に何回転するというものです。それはそのようにプログラムされ、設定されています。それは機械的であるため回転します。もし私が、そのマシンに機械的であることを自己認識させることができたとすると、それはもう機械的ではなくなります。機械的でありながら、同時に「私は機械的である」という事実を認識することはできません。これは素晴らしい洞察であり、精神的な成長の第一歩です。