Sādhana & Sādhya #3
自らと共にいることは贅沢
日常生活において、今日の世界においては、最大の贅沢は時間を取って自分に還ることです。インドに来て二、三年私と一緒にいたアメリカ人学生の何人かはこう言います。「スワミジ、私たちがあなたと過ごした数年は本当に実りある時間でした」と。なぜなら自分に還ること、自分自身を見つめることは贅沢だからです。私たちの文化では、それは日常的なことでした。考えてみてください!それが私たちの祖先の人生でした。人は自らと共に時を過ごすべきなのです。実際のところ、あなたは自分自身と、そうでなければ、神、イーシュワラと共に時間を過ごします。それもまた自分自身と一緒に時間を過ごすことと見なされています。今や、それさえもが一種の社会活動になりましたが、それは完全ではありません。
自らと共にいることは一種の贅沢です。皆さん一人一人がそれを獲得したのだと思います。ただここに在る、木々の間に、空の下に。突然、さまざまな鳥の声が聞こえ、カラスも見えます。カラスはいたるところにいますが、あなたにはそれらを見る時間がありません。ここ、アシュラムでは、あなたは自分の周りで起こっていることにもっと敏感になります。私たちがこれから探求しようとしていること以外についても。それはサードゥ(*1)の生活のようなものです。サードゥとは、問題を持たない人を意味します。「このサードゥには多くの問題があります」と言うことはできません。 サードゥというのは、彼または彼女が自由であり、多くの時間を持っているため他の人を助けることができる、parakāryam sādhnoti iti sādhuという意味です。ですから、あなたは一週間だけのサードゥであるという感覚を持っても良いでしょう。もちろん私はあなたにローブ(サードゥが着るオレンジの布)を与えませんが、姿勢はサードゥのそれになります。
部屋に入るとき外で靴を脱いで置いてくるように、すべての問題を外に置いてきなさい。他のすべては外にあるものです。私たちはそれらを拾い上げ、それらは私たちを待っています。私たちは心配しすぎです。ある人が言いました。「スワミジ、私はよく心配します」。
私は彼に聞きました。「なぜですか」 「それは、私が心配することは決して起こらないからです。だから、何かが起こらないようにしたいときはいつでもそれを心配するのです!」それは問題に対処する良い方法です。あなたが心配することは決して起こらないかもしれませんが、不快なことが起これば、それはあなたが心配しなかったかもしれない何かです。
リシケーシュに来てしばらくして、私は毎日新聞を読むのをやめました。以前は熱心な新聞の読者でしたが、それを止めたのです。三年後、私はまた新聞を手に取りました。私がどう感じたか分かりますか。私は何も逃していないように感じました。それは繋がりが完成したものであるからです。三年前に私が読んだのは、列車の脱線があり、どこかで殺人があり、略奪があり、首相が今後の状況がどのように良くなるかなどについて述べたということでした。今私が読むものも、以前に読んだものと同じものです。スポーツ欄では、インドがテストマッチに負けたことを読みました。つまり私が一つ学んだのは、物事はあまり変わらないということです。私たちは心配しすぎるのです。物事はそこにあり、いつでもそれらに再び追いつくことができます。一週間の間、それらをすべて置いて、ただここにいなさい。ここで何が起こっても、起これば良いのです。これは意味のあるリトリートです。それは、山の中、空の下にいることによってただくつろぐプロセスではありません。それは学びのプロセスです。そして、扱うトピックもまた非常に伝え導くものである、ヴェーダーンタの概要です。それは人生の目的と手段、サーダナとサーッディヤの研究です。
*1 : साधु:, sādhuḥ の言葉自体の意味は「良い(徳のある)人」ですが、ここではサンニャーシー、いわゆる出家者の意味も含まれています。